音更町然別の石碑等

産業遺産

令和6年1月21日(日) 〒080-0351 北海道河東郡音更町然別北5線西38−8

 芽室町での水泳大会の帰り、帯広市から芽室町に抜ける国道241号線から道道75号線に左折して、過ぎに巨大な石碑等が林立していた。

【然別渡船場跡】
 小さな祠の横に「然別渡船場跡」という金属の標柱があり、その横に説明板があった。以下のとおり記載されていた。「渡辺勝がシカリベツブトに定住し牧場経営を本格化した頃の明治26年(1893)に然別西7号から伏古別7号(現帯広市西17条付近)にかけて「渡し舟」が私設で行われていました。音更の渡船の歴史の中では最も古く、さらに明治29年(1896)、中島1号先に「たぐり渡船」が始まりました。明治33年(1900)、然別西7号から伏古別7号間に官営で「然別渡船場」が開業し、船賃は人が2銭、馬は4銭でした。当時の然別川奥地の人たちにとって、帯広と往来する上で重要な渡船場でした。その後、昭和10年(1935)ころまで西帯広との往来だけに人だけを乗せていました。」

【故渡邊勝翁開拓記念碑】
 自然石に上記のとおり刻まれ、その横に「子爵加藤高明書」と刻まれている。その下の基台には説明板がはめ込まれ、判然としないが次のとおり刻まれていた。「碑文 渡辺勝翁は尾張藩槍術指南綱良の長男 明治十六年晩成社幹部として十勝に移住 帯広西士狩に続き同二十二年 当地に牧場を拓いて開墾の鍬を打ち振った 大正十一年六月十五日 六十九歳で没したが 部落民は生前の功労を称え 同窓の後輩加藤高明子爵に題字の揮毫を依頼 部落碑をもって此の碑をこんりゅうした 寄贈者 清都 清 寄贈 平成元年六月七日

【然別開拓百年記念碑】
 3メートル以上もある巨大な自然石に上記のとおり刻まれ、その横に「音更町長金子尚一敬書」と刻まれ、裏面には「??之六月建立」と刻まれている。その横の説明板には次のとおり刻まれていた。「碑文 北辺の開拓を志した 晩成社幹部 渡邊勝 カネ夫妻の炯眼によって 沃野 然別が発見され この地に牧場が開設されたのが 明治二十二年(西暦千八百八十九年)であり これが当地区(然別、大和、南大和)開拓の草分けになる その後 明治二十九年 植民地が解放されるや 入植が相次ぎ 暫く 炊煙たちこめ 然別地区を形成する 開拓者は立木も切り裂く寒さに凍え、冷湿害と度重なる然別、十勝雨河川の氾濫等 打続く災害にも耐え、幾多の変遷を経て 豊穣の里を築く。難渋する 開墾作業のかたわら地区振興のため、橋梁、道路、築堤の補修 学校の創設維持に努める等、その功績は枚挙に遑がない。星霜百年 先人の旺盛な開拓精神は少しも衰えることなく 各世代に継承され 今日の隆盛を見るに至っている ここに先人の御労苦を偲び 開拓の偉業を頌徳するとともに この地に生きる喜びをかみしめ 開拓二世紀に向け より豊かな理想郷建設に邁進する証として この地を建立する 平成元年六月吉日 然別地区開拓百年記念事業協賛会」

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