中山道(深谷~本庄)

中山道

令和6年(2024)4月27日(土) 深谷宿~本庄宿(10.8km)
当日の総走行距離 23.9km 6時間3分(熊谷宿~深谷宿~本庄宿)

 深谷宿を出るとすぐに瀧宮神社であった。水が豊かなところで裏にも池が残っていた。

【瀧宮神社】(概要)深谷市の中心地は南を流れる荒川、そして櫛引台地と北の利根川・小山川によって形つくられた妻沼低地。 瀧宮の地は台地と低地の境目に位置し、秩父山地に降る雨は荒川の流れとなって流れ来て、 台地の地下深くに浸透し湧き水となって台地の北端にあるこの地に現れ、 大昔から人々が生活を営む場所として大事にされ、痕跡が土器や住居跡として掘り出されました。
 境内の池はその時代から続く湧水の一つで、豊かな湧水は人畜の飲料に、また田畑を潤す用水にと使用され、 多くの幸を授ける源を神様から戴いた清浄な地として、渾々と湧き出る神水は唐沢川の谷に流れ落つるが如く瀧に因んでか、 いつしか「瀧の宮」と称して神社を祀りました。
 太陽の恵みを体現された日の大神様の天照大御神、太陽の恵みを地上に活かして幸を授け給う豊受大御神、 海・山・里の幸々を授けて下さる山幸彦の名で知られる彦火火出見尊の神様をこの地に祀り、以来ここに暮らす 代々の人々は神々への感謝と豊穣への祈りお祭りごとを受け伝え、明治までは瀧宮山正覚寺が別当として祭祀を預かっていました。深谷の地が関東地方を経営する上で大切な処と悟った上杉氏は康正二年(一四五六)深谷城を築くと城の西南に位置する瀧宮神社を坤門(裏鬼門)の守護神として崇敬すると共に、 この湧水を城のお堀に引き込み用い、領国安寧の御神徳を歴代の城主は願い深く信仰し崇敬の誠を捧げてきました。
 寛永十一年(一六三四)太平の世になると深谷城は廃されましたが、深谷は主要街道の一つ「中山道」の宿場町として栄え、 当社は仲町・本町・西島の鎮守「瀧宮大明神(たきのみやだいみょうじん)」或いは「大神宮瀧宮(だいじんぐうたきのみや)」 として心の拠り所とされてきましたが、明神様へ寄せる敬神の思いは脈々と今に続いております。
 開発が進む深谷市の中心街にあり太古の昔から営々と湧き出ずる真清水(御霊水)は人々の生活と心を潤し、 森を育み特に桜の名所として沿線の住民の憩いの場として親しまれ、「埼玉の自然一〇〇選」に続き「深谷新八景」に選定されましたことは、 大神様の御神意によれるところであります。尚昨今でもこの御霊水は「お水取り」と称し、多くの方々が汲んで参ります。 このように氏子を始め、多くの皆様方がお寄せいただく御崇敬により当社の御神威が弥増し社頭が栄えることは誠にめでたきことであります。

 この辺から、岡部藩になるそうだ。近くに「史跡髙島秋帆幽囚地入口」碑があった。また、「武州???」碑や「新?岡部霊??碑」があったが、内容はよくわからない。

【岡部藩説明板概要】
 家康の関東入国に際し、安部信勝が入国した5250石を基に発展。信勝の息子信盛は上杉景勝討伐や大阪の役で功を挙げ、寛永13年に三河国4千石、慶安2年に摂津国1万石を加増され信盛は20250石となり大名となった。この分割統治は江戸末期まで続いた。

 普済寺を過ぎると「鳥護産泰神社」であった。
【鳥護産泰神社】ネットより転載。古い。
 当社は北武蔵有蹟の社で、景行天皇御宇日本武尊により祭祀され、桓武天皇延暦年間(782-806)坂上田村麻呂将軍祈願参拝された古い社である旧榛沢郡総鎮守でありながら延喜式内神名帳にも登載漏れなり。伝うるに当時榛沢群全域に一社もないのは、正に調査もれによるものであって納得ゆかず古来よりの神異神話神助古文書に存在しておる。
 産泰講並に底抜柄杓奉納起因の儀も建武年間(1334-1338)以前既に奉納の実あり其の意は、御祭神の御神徳古事歴により当社に安産祈願せば不思議にも難みなく毎年数千本の柄杓の奉納ありこれが文久辛酉年(1861)、仁孝天皇皇女和宮殿下将軍徳川家茂公に御降下遊さるるにあたり当社前を御通過あらせらるるや殿下には畏くも鳥居前社標榛沢群総鎮守安産守護神とある文字を御覧遊され卒然御籠を停め御翠簾をあげさせられ容を正し祭神木之花咲夜姫命を遙拝あらせたと言う。
 また社殿は往古より有形的の建物あり種々変遷し慶安年間(1648-1651)焼失以後数度建改築したも極く最近嘉永安政(1848-1859)に亘り、更に改築現今に至り然るに百二十有余年の建物で破損夥しく今回、氏子総意協議誠教致福の精神頗旺盛で改修築委員を組織氏子内工匠全員奉仕約八百万円工事費で竣工の運びとなり是が趣肯石碑に刻し後世に伝えんとす。

 この辺から道が複雑になってくる。歴史とともに、道も変遷しているようだ。

【中山道古道について】碑(概要)
 田島一朗氏東の切通をくだり、17号バイパスを横断。江戸時代にはこの切通はなく、百庚申脇の急峻な坂を辿るルートであった。切通の開墾は明治期以降。江戸時代の中山道は、この坂道を下ると幾度か右折左折を繰り返し、小山川を渡河。皇女和宮の降嫁の行列も通過した往時の正確な中山道の道筋を記す。

 坂を下ると百庚申であった。説明板を転載。

【百庚申】
 百庚申が建てられたのは幕末、万延元年(1860)が庚申の年に当たり、岡(地名)の有志十三人で計画され、翌年の万延二年にかけて完成された。このことは、庚申塔群の中に大型の板石に庚申と記した庚申塔があり、その裏面に刻まれた十三人の氏名から、うかがい知ることが出来る。もともとこの場所には、享保元年(1716)に造立された庚申塔があって、二十二夜待塔、馬頭観音の石碑も立っていた。万延元年は、徳川幕府の井伊直弼大老が水戸浪士たちに江戸城の桜田門外で暗殺されたり、黒船来航により長い鎖国の夢を破られた日本国情は騒然としたもので、民衆の生活も不安なものであった。このような状況であったので、自然神仏に頼ろうとした心理と万延元年(が庚申年に当たった)が重なり百庚申が造立されたと推測される。

 ここから道に迷い、通常の国道17号線を辿って本庄宿に辿り着いた。

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