晩成社史跡公園

古い建物

令和6年(2024)4月20日(土) 広尾郡大樹町晩成

 大樹町生花地区~(国道336号線)~晩成地区~晩成温泉~ホロカヤントウ~(道道881号線)~晩成社史跡公園 23.7km 2時間58分

 生花地区から遠回りで約20kmをかけて今日の目的地である晩成社史跡公園に到着する。乃南アサの「チームオベリベリ」にも出てくるが、依田勉三が帯広だけだと手詰まりと考え、この地に牧場を開設したのだ。ここは丁度、生花苗沼の北端の高台の上にあった。役場のホームページによる史跡公園の概要は次のとおり。
 「晩成社史跡公園は、十勝開拓の祖である依田勉三が明治26年夏の建設時から大正4年春まで住んでいた住居の復元や、井戸跡、サイロ跡、ムロ跡、もみじひら歌碑、祭牛之霊碑などがあります。平成元年10月に文化財保存建物協会の指導のもとで復元された依田勉三住居の間取りは三分割されており、畳4帖敷の居間、土間、風呂場と物置場となっています。」

 各種の説明板が設置してあった。概要やキーワードのみ記す。

【晩成社と大樹】
 十勝開拓をめざした晩成社は、明治十五年一月一日西伊豆の那賀郡大沢村(現在の松崎町字大沢)で結成された。明治十六年依田勉三の率いた晩成社社員(十三戸、二十七人)が横浜港を出発し、下帯広村に入植した。明治十九年この地当縁村生花苗(オイカマナイ)に弟文三郎とともに牧場経営の為に入地した。開墾作業は困難を極めたが、牛、馬、豚の飼育、養蚕、ハム製造、馬鈴薯、ビート、しいたけ、米、木炭、練乳、バター、コンデンスミルク、缶詰の製造を試みた。また木工場を建設したがいずれも成功しなかった。明治四十二年には、生花苗沼を港湾にする計画を持ったが実現できなかった。不屈の精神で大正九年には幕別町途別で米作に成功。勉三はこの地に大正四年まで住み、大正十四年帯広市の自宅で73歳の生涯を閉じた。(以下略)

【サイロ跡】
 二つの穴がサイロ跡。明治38年に作られた。北海道最古の地上式コンクリートサイロであった。明治19年、雄牛4頭、雌牛10頭を陸奥の国から購入。最盛期には牛200頭、馬130頭を飼育。明治26年には函館に肉屋を開店、明治34年にはホルスタインを導入。明治38年には練乳工場を整備しバター、ミルク、ハム、大和煮を始めたが市場と離れていたため軌道に乗らなかった。

【佐藤米吉の墓】
 大正3年3月建立。碑には次のとおり記載「米吉は秋田県由利郡上川村、佐藤兼平の次男でこの地に来て、伊藤菊松とトド山に行き伐採中に木の下になり死んだようになって帰ってきた。看病したが6日目の明治23年3月19日死亡。殉職した米吉のために依田勉三がこの墓を建てた。

【祭牛の霊碑】
 明治36年6月4日建立。碑の概要「今年3月に牛の飼料がなく、出産間近な牛が多く、外の牛は雪野にはなっておいたら小屋のかや等を食べさせる。数多くの牛が死んでしまった。生き物を飼う者が飼料を貯えていなかったのは飼い主の罪ではなはだ申し訳ない。今後の戒めのために涙をふるって書き残す」

【もみじひら歌碑 ふみまなぶ学びの子らがうえおきし 園生のもみじにほいそめりけり】
 もみじの美しい理想郷に育てようと名付けた。

【旧依田勉三住居】
 勉三は明治23年、火災により住居を焼失したが、この建物は明治26年に夏に建てられたものである。(以下、略)

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